昭和40年8月28日 夜の御理解
例えば、手紙を出すのに十円の切手ですかね、十円の切手を貼って出せば国内もうそれは、北海道まででも、鹿児島まででも、んー、それがまいります。日にちは少しかかりますけれども、間違いなしに東京まででも、北海道にでも届く。それはこちらが切手を貼ってるからです。もし、切手を貼ってなかったり、( ? )だったり致しますと、今度は向こうのほうでとられなければならない。まあ、郵政省はそういう一つの責任が出きる訳なんですね、切手を貼りますから。例えば、小包なんかを送りましてもそうです。手紙だけじゃなくても、どんな例えば大きなものでも、小包、その約束に従って、えー、荷造りを頑丈にしてそして、荷札をきちっとつけていけば、切手を貼っておればそれがいくようなもの。ところが、どんなにしてあっても、そのそれだけの確かに手はとってあるのだけれども、いわゆる、荷札が切れておったとしましょうか。いわば、それは地に迷うてしまいます。ね。どこに持っていってよいやら分からん。差出人も、おーそれは、ある意味(?)に書いておるから分からんに致しましても、ね、いわば向こうの受取人のところが分からなくなってまた、手前に戻ってくるようなもの。私達のこの祈りというか、願いといったようなものが、そういう確かに届かなければならんものが届かんで、途中で迷っておるようなことはないだろうかと。ね。神様がいちいち聞き届けて下さる。なるほど神様は見どおし、聞きどおしだけれども、ね、見どおし、聞きどおしで終わりになるだけならいかんと。やっぱり、見てくださった事、聞いてくださったことを、本当に合点してくださらなきゃいけん。まあ、あれがあげん、同じ事ばかり、もう、繰り返し繰り返し願いよるだけではいかん。おーと応えて下さる内容でなけりゃいかん。と言うこと。
そこで私は、思うんですけれどもね、えー一番確実に間違いなく、その、神様受けて下さるもの、それは、「此の方の道は喜びで開けた道」だと、喜びでは苦労させんと仰るような、私、喜びという切手を貼ってやる、いうなら、間違いないと思いますね。例えて言うなら今日、夕方からお湿りを頂く。本当に結構なお湿りを頂きまして有り難うございますと。まあ、干天するなかに、こうやってお湿りがあるという事は、本当にこれはお百姓さんでなくても、私共でも、ありがたいなあ、良いお湿りだなあとこう思うんです。ですから、ありがたいなあとその思う心が神様有り難うございますと、いわば自由として、お恵みの雨として、ありがたく神様にお礼を申しあげる心。これは、もう必ず通うです。ね。そういうのが通うていくわけですね。喜びで開けた道だからというのですから。ところがです、今度はかんかん照りになってくるともう熱かのうということになってくる。もうとてもどんこんされんこげんあつかなら。もう、昨夜はあつうして眠れんかったと。というてその、不平不足になってくるとです、今度は折角喜んで向こうまでいきよって、後かえしてくるようなことはないだろうかと私は思うですね。もういかに、私共が喜びの稽古をしなくてはならないかと、もうそれこそ、お湿りが有り難いのなら、またお日照りも有り難いということを本当に分からなければいけない。お日照りそのものも本当に神様のお恵みであるという事が分からなければならない。金が儲かったことだけが有り難いのではく、損したのも有り難いのだと。ね。生きることも、死ぬることも、一切が神様のお計らいの中におかげの中にあることだから、ありがたいとお礼を申し上げれるような心の状態というものを、いかに、大事に育てなければならんかという事が分かるですね。
私共が祈らせてもらう。ね、お礼を申し上げると、そのお礼がです例えば本当に干天のお日照り続きの時に、お湿りがあると有り難いという、あの実感をもってお日照りもまた、ありがたしと受けられるような、おかげを頂かせてもらうというような事がです、間違いない神様への交流という事になると思う。次には私は、お願いを皆するんですけれども、そのお願いというのがです、そのお願いということが神様のお慶び頂ける願いであるかどうかという事です。どうぞ、今日もいっちょ商売繁昌をさせて下さいと、今日も、どうぞ平穏無事で健康のおかげを頂かせて下さいと。ね。そういう、例えば願いだけではいかん。願いの内容が今朝から頂く御理解のように、ね、例えば、御造営に繋がっておらなければならないというように、それは、御造営というわけではありませんけれども、神様のお慶びに繋がっておらなければならない。ね。どうぞ、健康のおかげを頂かせて下さいと。そして、この健康をもって、家の中がまたは社会が明るくなるように、豊かになるように、働かせて頂くために健康を下さいとうような願いならば、必ず神様へ、私は通ると思います。ね。
ところがその、神様に通るはずのその願いが、あーこの、確かに届くはずなんだけれども、届かない場合がある。それは私はその思いがいよいよ強いものではないからだと思うんですね。強い荷造りをしていないわけなんです。強い名札が付けてないんです。だから途中でどこで、切れてしまいよるわけなんです。ね。そして、また、手元に戻ってくるといったような結果になっておるような事はないだろうか?信心はだからそういうようなところをです、ね、神様の間違いのない、神様の願い例えていうならばです、私共の小さい願いではなくてです、天地の親神様が秋永徹なら秋永徹に氏子の上に、秋永徹こうあってくれよという、願うておられる願いがある。こういうおかげを下さろうとする願いがある。例えば、秋永徹に一千万円頂戴してやろう、と言う願いがある。それに、徹は百万円頂戴して下さいといいよるなら、もうてんでこう互い違いになっておるでしょう。ですから、私共の小さな願いは金繰り捨てておいて、まずまず、神様、私にかけられる神様の願いが成就いたしますように、そのための修行は例えば火の行、水の行でもいといませんといったような、私は姿勢というものが、必要ではなかろうかと私はこう思う。ね。氏子の一人一人のうえに神の願いがある。神の悲願がある。その願いがいわば達成される事を、願わなければいけない。為の修行は厭いませんというような、私は信心だったらです、もう必ずその頑丈な荷造りになり、頑丈な荷札がつくほど、必ず神様の元へ届く、と私は思うですね。これは、お礼とかお願いとかね、喜びとか願いとかだけではありません。お詫びでも同じ事。ね。私共ささいなことでも願うということはです、その、願うということがです、その難儀を感じればそこから逃れたいと思うのは皆同じなんです。病気しておれば楽になりたいのですけれども、その、どうぞ、おかげを頂かせて下さいというその願いがです、神様のお喜びに繋がっておるものでなからなければ、私は神様の目的にいわば宛名を書いておるとはいえないと思うのです。ね。お金を儲けさせて下さいというけん、お金を儲けさせて頂いたところが、もういらんこつばっかりに使う。健康なおかげを頂かせて下さいというてその、健康のおかげをやったところが、それで酒ドンばっかり飲んで回ってから、いわゆる暴力ばっかり振うといったような事の為に、何の神様が健康を下さるのかということです。ね。ですから、どうぞ健康を下さいと。ね。その願いの内容というのが、です、いわゆる健康を持って神様にお慶びいただけるような御用にお使い回し頂く為に、健康を願わせてもらうというような、私は名札がです、ね、宛名が掛けられておらなくてはならない。これなら間違いないところへ神様に通うていくだろうとこう思うのです。ね。
どうでも一つお互いまずなんというても、信心修行から体験させてもらうということがです、なるほど、降ることも有り難いけれども、照ることも有り難いんだなあという事をです、本当に分からなければ、降っても照っても有り難いという気持は開けて参りません。ね。そこに神様の所に交流するばっか、またその、交流したその道を辿っておかげが通ってくるばっかり。ところが、お互いがお礼を申し上げるところを不足をいいよる。お礼を申し上げても不足をいいよるから、本当のことは通わんで途中でちゅうてんぶらりんで迷うておるような、願いになっておるような事はなかろうかと、思うてみなければいけないと思うですね。 どうぞ、おかげを頂かねばなりません。